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今の季節、隅田川沿いはとても気持ちがいい季節。
GWはちょっと違った「粋」な浅草歴史探訪の旅ってのもおつなもんです。

浅草〜今戸・山谷堀

浅草駅をおりて、そのまま景色の良い隅田川沿いを南千住方向に向かいます。

しばらく行くと、水門みたいな物があるとこに来ます。
ここが昔、隅田川から山谷堀への分岐点になるところでした。

通りに出て、右方向に行くと今戸神社。

今では縁結びにご利益が有るとして、若い女性にもの凄く人気です。
実はここの姉妹が女性宮司としてこの神社におります。
招き猫発祥の地としても、有名です。

今戸神社を出て、右方向に戻ると山谷堀。

山谷堀は、昔隅田川から吉原遊郭に続く、猪牙舟(ちょっきぶね)が通る水路。
ここから船に乗って、遊郭に遊びに行った訳です。

山谷堀は明治の頃に埋め立てられましたから、いまでは堀は有りませんが、その面影だけは現在も残っています。

山谷堀をずっと進むと、いよいよ吉原遊郭があった場所に出ます。

吉原に入る前に、ちょいと腹ごしらえでも。
腹が減っては戦は出来ぬというじゃ有りませんか。

右手に行くと、老舗の土手の伊勢屋、桜鍋の中江さんが軒を連ねます。

土手の伊勢屋も中江も開業は明治の頃にこの建物は建てられました。
何故に土手の伊勢屋かと言うと、その当時までは山谷堀が近く迄続き、山谷の涙橋が掛かった辺り迄土手が有ったからなんですね。だから土手の伊勢屋。

桜鍋の中江さんは蹴っ飛ばし屋の中江さんで地元の方に愛されてきました。
蹴っ飛ばし屋の語源は、その中江さんの出す馬肉料理から来てるんです。
よく「この唐変木。馬に蹴られて死んじまえ!」なんて言葉があるじゃ有りませんか。だから蹴っ飛ばし屋。なんとも昔の人は粋な呼び方をします。

しかしなんで馬肉を鍋にしてるのか。
江戸の頃迄日本人は肉を食すという習慣が余り有りませんでした。
開業当時、西洋文化が丁度日本に入って来て、江戸では牛鍋等が流行り出しました。

近くに有る吉原は、乗り物で入る事が出来なかったので、当時馬で来る人も多く、吉原で遊び過ぎてお金が足りなくなった人が、馬を売って支払いに充てることがよくあった為、商人達が馬を持て余していました。
牛が鍋になるなら、馬も鍋にしたら旨いんではないか。
そんな発想で馬の鍋を始めたのが、桜鍋の始まりという訳。

ですから当時は吉原周辺に数十件の桜鍋屋が出来たそうです。

いざ吉原遊郭へ

そんな食い物屋さんをでたら、いよいよ吉原遊郭に。

入り口付近には見返り柳。
客人が帰る時に名残を惜しんで、吉原を振り返った事からついた名前がこの見返り柳。
そしてちょっと曲がった50軒通りを入ると、いよいよ吉原大門です。

実はこの50軒通り。
何故に曲がっているかと言うと、外から遊郭の中が見えない様に工夫されているんです。
そして大門から三軒手前の場所が、江戸の時代に浮世絵を一手に売っていた蔦屋重三郎の蔦屋が有った場所でもあります。

そしていよいよ大門に。今はこの大門が有った辺りは、門柱が建っています。
そして交番がある場所は、以前は松葉屋という手引茶屋が有り、昭和50年代迄ははとバスが止まる程の大きな茶屋でした。ここで毎日花魁ショーなんかもやっていたんですよ。

江戸の頃の吉原は入り口も出口もこの大門一つ。
廻りはぐるっと幅2間(3.6 m)程のお歯黒溝に囲まれ、遊女が足抜け(逃亡)出来ない様になっていました。

「大門をそっと覗いてしゃばを見る 」

ずっと奥に進むと、右手に吉原神社が見えてきます。

吉原神社は昔吉原に有った、玄徳稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社5つお稲荷さんを取りまとめて作られたもの。

今では浅草七福神の弁財天として活躍しています。

その吉原神社を過ぎますと、左手に弁天池跡が。

この弁天池の跡の悲しい物語は、関東大震災の時のこと。

何せ吉原は出口は大門一つ。
関東大震災で火の手があがった吉原から出る事が出来ない人々が、熱さから逃れる為にこの弁天池に多く飛び込んで死んだという訳なんです。今ではここには観音様が建てられ、毎年関東大震災が有った9月の初めには法要が行われています。

鷲神社〜三ノ輪・浄閑寺

弁天池跡を過ぎた辺りを右に入ると、あの酉の市で有名な鷲神社に。

鷲神社を通り過ぎ、飛び不動さんを過ぎた右路地を入ると、あの樋口一葉の記念館が有ります。

樋口一葉はこの辺りに半年程ですが住んでいたんですね。
樋口一葉が一番苦しいときにこの辺りに住んで、荒物屋をしながら執筆活動をしてた様です。その後は本郷に移るのですが。

さて、一葉記念館から今度は一気に三ノ輪方面を目指します。
三ノ輪の駅の直ぐ近くに吉原と切っても切れない縁の有る、浄閑寺さんがそこには存在します。

「生まれては苦界 死しては浄閑寺」

これは花又花酔の川柳で、吉原の遊女達の悲しい定めを詠った新吉原総霊塔がここに有ります。身請けされるか、病で死ぬことででしか吉原から出る事の無かった遊女達。ここ浄閑寺は投げ込み寺ともいわれ、身寄りのない平均年齢21歳程の遊女達がおよそ2万人以上ここに眠っています。

また新比翼塚というのが有り、こちらは花魁と恋に落ち、非業の死を遂げた役人と花魁を奉った碑。せめてあの世でだけでも結ばれんという意味合いの碑です。

そして遊女若紫の供養碑。
明治31年に新吉原角海老楼にいた、若紫という非業の死を遂げた花魁を奉ったもの。

永井荷風の断腸亭日乗にもこの碑の事が書かれています。

永井荷風が云うには、若紫という器量の良い花魁が角海老楼にいて、花魁に袖にされた輩が、たまたま入った角海老楼で目に付いた若紫を、他の花魁に袖にされた腹いせに、カマで殺したという話。

この若紫は年期明けももう直ぐという頃で、年期を明けたら一緒に住む人も決まっていて、幸せな人生を歩む予定でした。しかし、何のとばっちりか、この変な男の目にたまたまとまってしまった為に、無惨に殺されたという訳なんです。
※若紫についての詳しい説明はこちら

これを不憫に思った人がこの若紫の為に、ここ浄閑寺に供養の為に碑を建てたと。
歌舞伎でいうとこの、籠釣瓶花街酔醒を彷彿とさせる様な事件だったのです。

そういや新橋演舞場の5月の歌舞伎では、夜の部で丁度「籠釣瓶花街酔醒」がやっていますね。

そしてこの浄閑寺には永井荷風の碑も有ります。

浅草やこの辺りを非常に愛してやまなかった永井荷風。
その碑には、

今の世のわかい人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
團菊はしおれて櫻痴は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の聲も亦絶えたりき。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を焼きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残煙となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の芸術を。
くもりし眼鏡をふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の兒ならずや。
去りし明治の兒ならずや。

「震災」
 「偏奇館吟草」より

浅草〜三ノ輪迄の長旅でしたが、歴史の勉強と時代背景などを解って散策すると、少し違った散策になる事間違い無しです。歴史と文化の「今戸・山谷堀〜吉原遊郭」は、如何だったでしょうか。


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東京浅草どっとこむ編集部

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