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浅草商店会情報 Archive
みちびき花の辻商店会
- 2008年7月 4日 14:52
- 浅草商店会情報
みちびき花の辻商店会 は、観音裏の言問通りに面するゴロゴロ会館から見番の方に向かう通称「柳通り」または「見番通り」とも言われている柳並木の美しい全長200mの中にある。
この商店会は、最近発足したばかりの会員14店のミニ商店会である。 この地は、かっては象潟町とよばれ、猿若町や吉原と共に江戸文化と歓楽の中心地であった。
現在でも区内で唯一の三業地である。
三業地とは料亭、待合、芸者置屋の3つが揃っている由緒ある本格派の花柳会。
昭和の初めには1500人の芸者を擁していたといわれ、現在でも浅草組合「見番」(芸者の出入りを預かる事務所)には20軒の料亭と数十人の芸者が加入しているという。
「粋な町浅草」、その中でも特に粋な町がこの商店会の界隈である。
また、お富士さんで有名な浅間神社の「植木市」はこの通りを中心に毎年初夏に行われている。
【史蹟を街づくりの核に】
商店会入り口のゴロゴロ会館左横に小さな祠がある。道引地蔵尊、正式には道引長太郎地蔵尊という、地元町会が守っているお地蔵さんである。
道引とは引導に通じ、この地蔵を信仰すれば浄土に生じられるという。
江戸期、将軍綱吉の生類憐れみの令で野良犬が増え、見かねた浅草寺の住職は使用人の長太郎に命じ、犬を集め隅田川に流してしまった。
しかしことが発覚し、住職は逃亡、その住職が死んだと思い込んだ長太郎は自害してしまう。後に彼を偲んで地蔵が立てられたという。
しかし、一般にはあまり知られていない「地蔵尊」である。
このような埋もれた地元の財産を掘り起こし、新しい街づくり、街の活性化に役立てようと当会は考えている。
【商店会のコンセプトめざして】
浅草の露地、横町には「人間のぬくもり」がある。
朝早く通ると柳の並木の歩道がきれいに掃き清められ、打ち水がされていた。
木造の店鋪の前には鉢植えの花が並んでいる。近ごろはこのような家並みが少なくなったので大変うれしい。
それゆえ、この界隈にはもうこれ以上ビルが建たないように願わずにはいられない。
決して銀座風、新宿風の街にはならずに、この粋な町、歴史のある下町の風情をいつまでも残してもらいたいと思う。
「うるおいのある街」、それは単に「まち」をきれいにかざるだけではなく、景観も「街づくり」の一環として地域にあった魅力あるものでなければならない。
そのためにも「自然、かつては町中のどこにも咲いていた草花、夏なら菖蒲、秋ならすすきなど日本独自の草花を当会に植栽していきたい。そんな思いで、柳の並木に四季折々の花が咲く「辻の花」の商店会というコンセプトを推し進めることにした。始めたばかりで時間がかかると思うが、それをもとに、買い物客が集まる魅力ある商店会づくり、街づくりのハード事業をこれから始めたい、この事業は町会長・辻村勇さんはじめ会員一体となって取り組んで行く」と大瀧代表幹事は熱っぽく話してくれた。
浅草北部ことぶき商店会
- 2008年7月 4日 14:48
- 浅草商店会情報
東京都を二分している隅田川に沿い南北に伸びる町の中に戦後いち早く誕生した商店会がわが浅草北部ことぶき商店会である。
南から今戸2丁目、橋場1、2丁目、清川1丁目と各町にまたがり、地元に密着した商店会活動で地元住民から歓迎をうけている。現在会員は46店舗である。
古くからこの地域は風光明媚な地として知られ、多くの史蹟が残されている。
当会の発足は昭和23年のことである。戦災をまぬがれた橋場を中心に発生した商店が次第に清川、今戸方面にまで軒を並べ始めたことから始まっている。初代快調に田村義治氏が就任、以後浅見染秋氏、小沢竹蔵氏、早川栄蔵氏、梅田昇氏と5代に受け継がれている。
当会の業態は衣料、食品、青果、薬局、日用雑貨など多種にわたっている。
会の運営には総務、商業運営、福利厚生の3部門を置き、役員17名が各々その任務を分担し活躍している。
事業としてはまず中元歳末の大売り出しを軸に各種行事を催しかつ区商連と密接な連けいを採り、地域社会の発展に尽力している。
56年11月22日には結成30周年を迎え、区民会館精養軒で盛大なる祝賀式典を開催した。
日の出会商店街
- 2008年7月 4日 14:43
- 浅草商店会情報
日の出会商店街は旧吉原遊郭大門からアサヒ会商店街に至る延長350メートルの商店街である。
中央に幅10メートルのバス通り両側に歩道3メートルに沿って東浅草2丁目、日本堤1丁目の各商店が並んでいる。当会の歴史は古く大正大震災後の「吉原大門通り共栄会」の誕生に始まる。
当時は隣接のいろは会商店街を凌ぐ繁昌振りをみせていた。
当会が吉原の正門に位置していたことが原因で、「桜鍋」「鮨屋」が多数存在し、そのほか床屋なども多く、これがこの商店街の大きな特徴でもあった。
しかしそれらも昭和20年3月10日の大空襲で廃櫨と化した。
戦後は昭和23年に「吉原大門通り日の出会」として再発足したが、昭和33年の吉原遊郭の廃止で大打撃をうけ、逆にいろは会に客足をうばわれる結果となった。以来活性化の努力を推進してきたが、平成元年に至り、“街を明るく美しく”のサンアップ計画を樹て、平成5年末完成をメドに街路整備事業に取り組むことになった。
そして平成5年11月、完成をみるに至った。歩道のカラー舗装化、花壇の新設、そして街路樹“やまもも”の植樹、そのほか街路灯40基、また会の南北入口にシンボル灯6基を新設した。
この完成により日の出会は面目をまったく一新、浅草北部指折りの景観商店街となった。
これを機会に当会では、地域の歴史と文化を肌で感じさせる個性的な商店会づくりをめざしている。
日の出会初代会長は増田清吉氏、2代目会長は古山宗平氏、3代目会長は細谷勇吉氏で、現会長は平山勝一氏で4代目に当る。
いろは会商店街振興組合
- 2008年7月 4日 14:39
- 浅草商店会情報
いろは会商店街振興組合は区の東北に位置し日本堤1丁目(旧田中町)のほぼ中央を東西に 走る幅8メートル、延長370メートルの通り会である。
そのむかし陸羽街道から吉原土手へ抜ける小道の一部に夜店の出店が許された。
現在のいろは会通りの起こりである。
大正8年頃この夜店通りに商店会ができ、連合大売り出しが始められた。
この名を「ありがとう会」といい、会長の呉服店主が赤い大黒頭巾をかぶり赤い羽織を着て金棒を引き「毎度、ありがとうございます」と、毎晩夜店通りをねりあるいて人気を呼んだ。そして11年、いよいよ通りの全店が結束して「いろは会」をつくった。関東大震災では大きな被害をうけたが不死鳥の如く立ちあがり、とくに街の中央に寄席「吉景亭」ができてからは遠近からの客で賑わった。
昭和12年、政府の商店街育成に従い、いろは通り商店街商業組合と改めたが、昭和20年3月の空襲で焼野原と化した。 戦後25年に「いろは会」を再発足させ、 ただちに活動を開始した。
ついで38年区内では二番目の振興組合に改組し初代理事長に磯貝建蔵氏が就任した。
中村広二氏は2代目理事長、三輪隆氏は3代目理事長、現理事長桜井照久氏は4代目に当る。
昭和51年4月に念願のアーケードが完成、それを機会に愛称を一般からの応募で「ショップメイト」と決めた。
近代的なアーケードの完成は、いろは会60年の歴史に画期的な一頁を加えた。
また同年11月にはカラー舗装も完成、“華麗な商店街”の誕生は、「いろは会」の名を区内外に強くクローズアップさせた。
当会の特徴を業種別にみると買回り品が多いことで、ついで最寄品が三割、サービス業そのほかである。
理事会は月一回で理事32名で構成し、その運営に当っている。
アサヒ商店街振興組合
- 2008年7月 4日 14:26
- 浅草商店会情報
アサヒ商店街は東京都台東区の北東に位置し、吉原大門から日の出会商店街を抜け、吉野通り(旧奥州街道)を入口に隅田川方面に向かう幅10m、長さ250m両側にある100軒の店鋪からなる商店街です。
江戸末期から明治期にかけて、この辺りは東京一の別荘地とされた地域でもあり、隅田川沿いには公家、旧藩主といった有名人の別荘も多く、現在の下町とは異なり、高級地域と評されていました。
また、かっての総泉寺の一部には、「土用の丑の日にはうなぎを食らう」と、当時のうなぎやの宣伝担当を引き受け、その風習を今に残した偉大かつ多才な科学者・平賀源内の墓所があります。
他に謡曲の隅田川で有名な妙亀尼を祭る妙亀塚や、お化け地蔵、江戸六地蔵の一つ東禅寺の地蔵菩薩座像、新吉原・三浦屋の遊女高尾太夫の墓がある春慶院等があります。
その他、あまり知られておりませんが、昭和初期に日本で最初の俳優学校が建てられたのもこの場所です。六世菊五郎校長、卒業生には三津田健、山形勲などがおりました。
現在のアサヒ商店街周辺は、隣接のいろは会商店街、日の出会商店街と共に、通称「山谷」とも呼ばれている労働者の集まる地域です。バブル時代には200軒以上のドヤと呼ばれる簡易旅館に15,000人の労働者が生活していましたが、バブル崩壊と共に急激に減ってしまいました。
それでも現在でも約150軒のビジネスホテル風に改築された旅館に、6千人程度の労働者が生活しており、労働者の街としての風景を伺い見ることができます。
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