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六区ブロードウェイ商店街振興組合

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六区ブロードウェイ商店街振典組合は浅草すしや通りと浅草ひさご通りを結ぶ延長300メートル、幅員12メートルの通り会で浅草1、2丁目に位置し、通り会は興行場と物販店などによって構成されている。

商店会の誕生は、まだあたらしく平成3年10月、東洋興業(株)松倉久幸氏らによって作られ、ついで5年4月、振興組合に改組している。この通り会は明治30年、活動写真の電気館、12階の凌雲閣の開館以来、浅草六区興行街の呼称でしたしまれ、明治、大正、昭和の3代にわたり全国の青年子女に“夢と希望”を与え、映画演劇の殿堂として全国一の賑わいをみせた。

石川啄木は「浅草の夜のにぎはひに、まぎれ入り、まぎれ出で来しさびしき心」とその賑わいをうたっている。
戦前は松竹劇場、常盤座、オペラ館などにあってエノケン、ロッパ、田谷力三、シミキン、大江美智子らがその名を競い、戦後はフランス座に拠って由利徹、渥美清、萩本欽一などが活躍、昭和30年代のテレビ出現まで一世を風塵、戦前の浅草と変らぬ景観を出現していた。

ところでこの浅草公園六区興行街の歴史は古く明治19年4月、浅草寺西火除地田甫の埋立計画に始まる。
この計画はそれまで奥山に出店していた諸興行小屋をあらたな造成地に一括移転し、境内の再整備を行うことにあった。

そしてこの地が後に「浅草公園第六区」となり、「六区」といえば、浅草公園の代名詞となり、大衆娯楽、活動写真(映画)常設館発祥の地、として繁栄を極めた。
以後80余年、わが国演劇史上に金字塔を打ちたてた。

そして同時にこのことは、この地に「浅草もの」といわれる文学作品を多く生む機会となった。
川端康成「浅草紅団」、武田麟太郎「酉の市」、高見順「如何なる星のもとに」などはあまりにも有名。
戦後では永井荷風の「断腸亭日乗」にみられる浅草ロック座もあった。
当組合は現在、このような多彩な歴史を有する通り会にふさわしく「大衆芸能」をテーマとし、それに因んだモニュメントを配置するなどまちづくり計画に努め、商圏を全国規模に広げたいとしている。
かならずやこのまちづくりは、その輝やかしい六区の歴史を後世に伝えるものと期待している。

東京浅草どっとこむ編集部

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